太田出版の本は買うことはないでしょう。
もちろん何を出版するのも自由ではあるのですが、
「自粛」の2文字はなかったのでしょうか?
Amazonで本を調べていたら、
ぶっちぎりで1位になっている本がありました。
レビュー数も300超。
こんなにレビューがたくさんつくのだからさぞや人気なのでしょう。
ただ、何か様子がおかしい。
発売直後のベストセラー本であれば、それこそ「やらせなんじゃないか?」と
いうくらい良い評価がついていることがしばしば。
この本は違う。
次の日、気になってまた見てみました。
レビュー数が405のうち、星1つの評価が349。
皮肉で星5つをつけているものを含めると、
約9割が最低の評価をつけていることになります。
よほどの駄本なのか?
それとも・・・?
何でこんなに評価が低いの?
レビューを読み進めていくと、理由がわかりました。
”ペンネーム”元少年A。
何だよ、どっかの犯罪者かー?
・・・酒鬼薔薇聖斗じゃねーか!!
しかし、これだけではレビューの評価が低い根拠にはなりません。
以下引用。
「少年A」――それが、僕の代名詞となった。
僕はもはや血の通ったひとりの人間ではなく、無機質な「記号」になった。
それは多くの人にとって「少年犯罪」を表す記号であり、自分たちとは別世界に棲む、人間的な感情のカケラもない、
不気味で、おどろおどろしい「モンスター」を表す記号だった。先ほどまでかかっていた霧は散り、大口をあけた獣の横顔のような、バックリ開いた純白の下弦の月が、夜に喰らいついていた。
風はやみ、吐き出した紫煙は幽かにゆらめきながら、純白の月へと真っ直ぐたち昇っていった。その煙はあたかも、この世でのミッションを終え、肉体から抜け出してゆく、僕の魂のようだった。不意に強い風が吹き、カーテンの裂け目が、いっそう大きく葉型に拡がった。
この六畳の洋室は僕の小宇宙であり、僕の、『拡張した』内界だった。
決して外へ開かれることのなかったその内界に、突如、外界の処女膜が立ち現れたのだ。
葉型に拡がったカーテンの裂け目に両手をかけ、僕は外界の処女膜を破り、夜にダイブした。
いかがでしょう。
何だかくどい言い回しの小説ですね。
しかし、こういう表現を「オサレ」だと絶賛する人がたくさんいるのも事実でしょう。
さて、この本を出版した意図を、太田出版の岡聡社長は以下のとおり
回答しています。
太田出版の岡聡社長は「少年犯罪が社会を驚愕(きょうがく)させている中で、彼の心に何があったのか社会は知るべきだと思った」と出版の意図を説明。「本は本人の手紙を添えて遺族に届けたい」と話している。
yahoo!ニュースより引用
そして、本のオビには次の文。
1997年6月28日。
僕は、僕ではなくなった。
酒鬼薔薇聖斗を名乗った少年Aが18年の時を経て、自分の過去と対峙し、切り結び著した、生命の手記。
どうやらこれは犯人の手記であり、小説とは違うらしいです。
手記は自身の体験をつづった物、
小説は創作の物語という理解でよいでしょう。
つまり、先ほどの小説のような引用箇所は、
犯人自身の当時の心境を表現したということです。
ちなみにこの箇所は被害者が被害に遭った直後のことを書いています。
レビューには、小説だ、ナルシストの書いたポエムだ、という
評価が目立ちます。
実際にそう思います。
もちろん形式が決まっているわけではありませんが、
遺族への謝罪や懺悔が目的であれば、このような小説じみた文章に
するべきではないでしょう。
犯人もさることながら、太田出版の姿勢もモラルに欠けていると言わざるを得ません。
まず、遺族には何一つ連絡をしておらず、当然許可も得ていません。
遺族の傷をえぐることになるため、必ず配慮が必要でしょう。
そこで、先ほどの社長のコメント。
そこまでして、「社会は知るべき」なのかと。
そこまでして、出版に踏み切るべきなのかと。
管理人は疑問に思うわけです。
なお、初版は10万部とのこと。
日本著者販促センターによると、この部数は半端ではありません。
http://www.1book.co.jp/003203.html
恐らく「売れる!」と見込んでのことでしょう。
(実際飛ぶように売れており、Amazonでは在庫切れ)
レビューでも指摘があるように
模倣犯(信者は多数いる模様)や犯罪手記ビジネスが現れるでしょう。
できの悪い小説として読むのならそれも良いかと思います。
残りはAmazonのレビューをご覧いただければよいでしょう。
買うならば古本で。